1ー6 旅の始まり
- Travel to Face
- 8月12日
- 読了時間: 4分
更新日:10月5日

私は面接試験の時と同じように地下鉄銀座線 浅草駅で降りて西浅草の旅行会社に向かいました。今日は初めての出社日。隅田川の土手では墨堤桜祭りが開かれています。
西浅草の旅行会社の面接試験の後、3社の試験を受け2社から内定をいただきました。友人や家族は別の会社への就職を勧めましたが私は迷わずこの会社への就職を決めました。
今、私はシャッターの閉まった人通りの少ない仲見世通りを歩いています。
面接試験の時、ここで感じた違和感は自分の就職活動への違和感でした。しかし、もう一つ自分への別な思いがあったように感じます。
かっぱ橋本通りから路地に入りアパートの角を曲がるとあの時と同じように社長さんが空を見上げて立っていました。
「おはよう旅奈さん」
社長さんは、そう言うと事務所の中に入っていきました。
私は慌てて走り出し事務所の自動ドアが開くのを苛立ちながら待って中に飛び込みました。
突然、「いらっしゃい」「はじめまして」「うっす」の声と共に大きな拍手が私を包み込み
拍手が鳴り止むと
「こちらに来て下さい」
社長さんが事務所の奥の方から優しい笑顔で私を呼んでいます。
そこにはハイジさんがいます。そして2人の男性もいます。
みんな田の字に並んだそれぞれ机の前に立って私を迎えてくれています。
私は引き寄せられるように小走りで社長さんの隣まで行くと
「今日からここで一緒に働いてくれる旅奈さんです」
社長さんの話を遮り、突然ハイジさんが言いました。
「一週間前から、マルさんは『旅奈さん、本当にうちに来てくれるんだろか』と言って、ずっとソワソワしてたのよ」
社長さんが軽く咳払いをするとハイジさんは可愛く舌を出しておどけた顔をしました。
「ここにいるのがうちの社員全員です」
「ハイジさんはもう知っていますよね?」
今日もハイジさんはとても素敵です。
薄いベージュのゆったりとしたパンツに濃紺の薄手の丸首セータ、アクセントに茶色のベルト。春の柔らかい日差しに溢れた公園で佇む彼女は、きっとファッション雑誌を飾ることができます。
「これからよろしくお願いします。私は少し言い過ぎるところがあるみたい。たけど気にしないでね。私、初めて旅奈さんにあった時から旅奈さんのことが大好きだから」
素敵に成長したアルプスの少女ハイジがここにいると、私は確信しました。

「彼は先生です」
社長さんが紹介した男性を見てすぐにお相撲さんを連想しました。
黒縁めがねをかけ、頭はボサボサ。身長165cmから170cm位とそんなに大きくはないのですが、その身体からはエネルギーを感じます。自分の2倍もある相手にひるむこと無く立ち向かうお相撲さんです。だけど愛嬌と可愛さがあるお相撲さんです。
「パソコンと競馬のことは、彼に聞けば何でも教えてくれるよ」
社長さんの紹介を聞いて「先生」「パソコン」「競馬」「お相撲さん」の単語が私の中で消化できなくなり頭の中で?マークが桜吹雪のように舞いました。
先生は、お相撲さんが土俵入りをするかのように頭を下げて低い声で言いました。
「うっす」
やっぱりお相撲さんだ。
「彼は酒匠さんです」
社長さんの紹介が終わるか終わらないうちに酒匠さんは話はじめました。
「私はこの会社に20年以上勤めています」
「この会社はとても楽しい会社です」
「社長にも同僚にも何も気兼ねする必要はありません」
「分からないことがあったら誰にでもいつでも聞いて下さい」
「私は日本酒が好きなので日本酒のことも聞いて下さい」
ハイジさんが手を挙げました。
「酒匠さん、また話が長くなっていますよ」
大きな笑いに包まれた酒匠さんは、天井を見上げながら頭を掻いています。いつか見た社長さんの仕草にそっくりです。みんなの笑顔には酒匠さんへの信頼が溢れています。社長さんと横に立つ酒匠さんは親友のように見えました。
「では、最後に私から」
社長さんの言葉にみんなが頷きました。
「酒匠さんが言うように気兼ねなど必要の無い会社です」
「しかし旅行会社としてお客様に楽しんでいただくこと、お客様の安全を守るとこは絶対に忘れないで下さい」
「そしてみんなとも十分に話し合って決めたことですが...」
「旅奈さんには日本の文化と工芸の素晴らしさを多くの人達に伝える旅行を企画して貰います」
「みんなも協力するので、旅奈さんが伝えたいことを旅行にして下さい」
「そのために日本の文化や工芸に触れて、感じて下さい」
みんながきょとんとしている私を笑顔で見つめています。
先生がお相撲さんのように両手で胸をたたいて大きな声で叫びました。
「うっす」と
こうして私、旅奈の旅がはじまりました。




コメント